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この騒乱の後も、続いて三項目(ガードマン体制即時撤廃、教授会議事録全面公開、能研処分白紙撤回)要求を争点として全共闘が結成され(1969年2月27日)、依然不安定な状態が続いていた。5月14日にはD館が占拠されたが、10月20日に再度機動隊が出動、解放された。10月25日には教育区域として指定された区画の周囲に鉄の板が設置され、断絶の象徴となった(70年4月19日に除去)。カリフォルニア大学からの留学生や、一部教員も加わった全共闘による運動は1970年5月19日の解散まで続けられた。学生運動の火種はくすぶり続けるものの、幾度かの波を経て少しずつ下降線をたどっていった。 第四期 学費値上げ阻止、11.17公示撤回要求運動 1974年が始まってすぐに、学費の値上げおよび順次引き上げが採用され、これを不服として同年1月16日に「学費値上げ阻止、11.17公示撤回」共闘会議が結成された。2月21日に実力行使に移行し、本館、理学館、図書館、体育館を占拠した。3月6日には封鎖を解除した。4月1日には学費が増額された。1975年には一部の学生が本館および理学館を占拠したが、2月4日から6日までの2日間でしかなく、ICUにおける学生運動の終焉を感じさせるものであった。 非同盟(ひどうめい、Non-Aligned Movement、ブロック不加担とも)とは、冷戦期に東西いずれの陣営にも与しなかった立場を指す。 インド首相ネルーが、自国の議会演説において、東西冷戦下における軍事同盟・軍事ブロックに加わることを拒否する外交姿勢を示したことが由来である。この考え方は、1954年のネルー・周恩来会談で示された平和五原則にも反映され、1955年にアジア・アフリカ29カ国が集まって開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)においても影響を与えた。 非同盟主義が賛同を集めた背景には、米ソの冷戦構図がかつての植民地・半植民地であった地域における覇権抗争を招き、インドシナ戦争・朝鮮戦争のような実際の軍事衝突を引き起こしていたことがある。その点で、この運動は反帝国主義・反植民地主義としての性格も有していた。 1960年にアフリカで17カ国の国家が独立したことで、国際社会におけるアジア・アフリカの発言力は一層強化された。こうした中で、ユーゴスラビアのチトー(ソ連とは距離をおいた独自の社会主義政策をとっていた)らの主導によって、1961年にベオグラードで第一回非同盟諸国首脳会議が開催されることになった。 非同盟運動に加わる国家は年々増加していった(2007年段階で、非同盟運動には118の国々が参加している)。しかし、増加する国々の中には、キューバのようにソ連との軍事的結びつきが強い国々もあり、「非同盟」の内実が問われることもあった。1979年にアフガニスタンの主権を侵害してソ連が侵攻した際、非同盟諸国が協調した姿勢をとれなかったこともこうした状況を反映している ジャコバン派 (Jacobins) とは、フランス革命期にできた政治党派の1つ。マクシミリアン・ロベスピエールが中心となって急進的な革命の推進を行った。財産の平等や身分特権の廃止などを求めて次第に独裁化、恐怖政治を推進したが、テルミドールのクーデター以降、没落の道をたどる。国民公会で左の席に座ったことから左翼の語源となった。また、共産主義の思想のルーツを探れば、このジャコバン派に行き着く。名称の由来はパリのジャコバン修道院を本拠としたことによる。 元々は、ジャコバン・クラブというさまざまな思想を持つ人々が集まるクラブであった。しかし、革命を経るにつれて立憲君主派であるフイヤン派や、穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(Montagnards、モンターニュ派・モンタニャール派とも)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る(上記の図も参照のこと)。 そのため、まれに転職サイト の意味としてジャコバン・クラブに属していた市民を指してジャコバン派ということもあるが、一般的には後者の急進共和派(山岳派)を指して用いられる。実際、ラファイエットやブリッソーなどのフイヤン派・ジロンド派の代表格も一時期ジャコバン・クラブに属していたが、彼らを指して「ジャコバン派である」と言うことはまずない。 一方で、急進共和派クラブであるコルドリエ・クラブ系の急進共和主義者たち(コルドリエ派)に対して用いる場合もあるが、この場合はクラブの違いを意識して区別されるだけであり、両者に立場的違いはあまりない。 三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトンクラブが原型である。ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。 1790年の3?6月にかけて、ラファイエットやバイイら立憲君主派はジャコバン・クラブから脱退し、89年クラブを創設した。一方、ジャコバン・クラブ内では1791年6月の、ルイ16世一家の国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や7月のシャン・ド・マルスの虐殺を期に、国王の責任を追及する左派と、議会と国王を共存させようとする右派が対立した。 この時期、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派がジャコバン・クラブから相次いで脱退。これに先の89年クラブが合流し、フイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設された。この時点でジャコバン・クラブからは立憲君主派が消え、残ったのは、穏健・及び急進的共和派となった。 8月10日事件1792年、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であったが、議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日、オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、革命の余波が軍隊に及んでおり、十分な指揮系統のないフランス軍は敗戦を重ねる(またこのとき、王妃マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。) プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、反戦派の中心であったロベスピエールやダントンが主導し、8月10日事件を機に王権の廃止を要求、実現させる。 やがて、国民公会と名のついた議会が開催される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。 こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派(モンターニュ派)とも呼ばれた。 国王裁判で対立したジロンド・ジャコバン両派であったが、ロベスピエールや、サン=ジュストといった山岳派の演説が勝り、1793年1月21日、国王の処刑に至る。国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では山岳派に圧倒され始めたジロンド派は、看護師 求人 の主要人物の拘束を図る。 しかし、5月26日にロベスピエールがジャコバン・クラブで行った演説によって、ジロンド派は国民公会より追放され、さらに逮捕・処刑された。ここに、ジャコバン派独裁体制が確立する。 やがて、ロベスピエールが属する公安委員会が革命の遂行のため、あらゆる権限を有するようになる。次第に彼らによる独裁政治が始まり、反革命派の粛清といった名目の下、次第に多くの人が処刑される恐怖政治へと変化する。 大胆な政策の実行や、反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、山岳派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、寛容派(ダントン派)、急進派(エベール派)に分裂する。両派の間に立つ中道派(ロベスピエール派)は、分裂した双方の派閥をそれぞれ粛清し、自らに権力を集中させ、恐怖政治を継続させた。 テルミドールのクーデタ 極端な権力の集中と恐怖政治の実行により、ロベスピエール派は次第に孤立していった。やがてテルミドールのクーデターが起こり、ロベスピエールが失脚すると、同年11月にジャコバン・クラブが閉鎖される。 1795年、すべての政治クラブの活動が禁止されると、地方に存在していたジャコバン派の勢力も急速に衰退する。ただしナポレオンによるブリュメールのクーデター(1799年)時にはフランス全土におよそ一万人のジャコバン派とされる実勢力はあった。それらを統べるのは、ベルナドット将軍ではあったが、騒々しさの割りに将軍自身の勇気の無さと、まとまりの無さから自然消滅してしまう。 しかし、ジャコバン派の思想そのものはバブーフら共産主義の先駆とされるネオ・ジャコバンや、フランス7月革命、1848年革命などの19世紀の諸革命を通して受け継がれ、共産主義思想やロシア革命に受け継がれるのであった。 1793年、通称監視カメラ と呼ばれる憲法が採択される。これは山岳派の理想が反映された憲法であったが、結局施行されることがなかった。公安委員会を中心にして、最高価格法や革命暦の採用などが行われていった。 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 派内での対立が深刻になる以前は、マラー、ダントン、ロベスピエールの3人を指して「ジャコバン三巨頭」と呼んだ。 過激派領袖 エベール派内急進派。ジャック・ルネ・エベールがリーダー。下層貧民を支持基盤としており、むしろ議会の外に強い勢力を持っていた。しばしば革命政府を「なまぬるい」として非難し、さらなる革命の推進を要求。エベールの発行する新聞『デュシェーヌ親父』を通して民衆の蜂起を促すなど、ロベスピエール派からは危険視され、粛清された。また、汚い野次や根も葉もない告発を行う議員も多く、その点からもロベスピエール派から嫌われる原因となった。 ジャン=バプティスト・クローツらを理論的指導者に、反キリスト教政策を掲げ、「理性の崇拝」を進めたのもこのグループ。アンラージュ(過激派、派外勢力)とも近い。 ダントン派内寛容派。ジョルジュ・ダントンを領袖に、カミーユ・デムーランなども有力者のひとりとなった。ジャコバン派の中では最も穏健で、ジロンド派との抗争の際には、彼らとの融和に努めた。ジロンド派、エベール派の処刑と、恐怖政治の過激化に際し、これに寛容な態度を要求。また、フランス革命戦争の停戦などを主張したが、更なる革命の推進をはかるロベスピエール一派によって粛清される。 リーダーであるダントンのデータ復旧 もあり、民衆への影響力も大きかった。ダントンやデムーランは、個人的にはロベスピエールと親友の関係にあったが、ロベスピエールの側近達は彼らをおそれ、逮捕に踏み切った。 中道派領袖 ロベスピエール便宜的に中道派と呼ばれるも、派内闘争に勝ち抜き、最後まで強力な独裁と恐怖政治を進めたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖とし、側近のサン=ジュスト、クートンとの三頭政治を行った(この場合も、この3人を「ジャコバン三頭」と呼ぶことがある)。 急進派のエベール一派、寛容派のダントン一派を粛清した後は、このグループメンバーが公安委員会の椅子をほぼ独占したため、ロベスピエールが提案した法案はほとんどが主だった反対もなく議会を通過、成立した。 しかし、身にやましいことのある議員や、地方で極端な虐殺を行った派遣議員達は、潔癖症とも言うべき独裁三頭からの告発を恐れる様になる。処刑を恐れ、ロベスピエールに反対できなくなっていた多くの議員達であったが、ジョゼフ・フーシェの陰謀により結束した反ロベスピエール派議員たちがテルミドールのクーデタを起こすと、いっせいにこれを支持した。 これによりジャコバン派そのものが崩壊し、元ジャコバン派の議員達も平原派と呼ばれる日和見主義者達のグループに合流し、テルミドール派を形成、革命の振り子を元に戻した。 派内で最も過激なグループ。あまりにも過激なため、一部でしか支持を得られず、また弾圧の対象でもあった。私有財産の廃止を求めるなど、共産主義のルーツとして知られ、フランソワ・ノエル・バブーフ、フィリッポ・ブオナロッティなどがそのメンバーとして挙げられる。 革命中は勢力を誇ることはなかったが、むしろ革命後の19世紀の諸革命でその思想を浸透させ、ジャコバン主義を共産主義へとつないだ。