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フランス革命においては1791年、ユダヤ人に即時無条件で市民権が認められ、その法的解放がおこなわれた。しかし、のちにナポレオンによりユダヤ人の権利は制限されている。 このことに関連して宗教あるいは道徳における解放思想としてはヴォルフの演説「シナ人の実践的哲学について」をあげることができる。当時の中国人の道徳を理性主義的な立場から十分倫理的価値が認められるものとし、キリスト教思想なくしても倫理思想を成立させることは可能だとした。この講演は当時の敬虔的な神学者から激しく非難され、彼はハレ大学の教職を辞さねばならなかった。 しかし同じく啓蒙主義に立脚するカントの『宗教論』においてはやや異なった見解が述べられている。彼は内面的な「見えざる教会」こそが真に道徳的価値のある宗教であり、外面的な律法を重視するユダヤ教は「見える教会」であるとして道徳的価値において劣っているとした。彼においては啓蒙主義的な道徳はキリスト教的な道徳と同質なものであった。 イギリスのウィルストンクラフトは『女性の権利の擁護』を著した。彼女はこの著作の中で教育制度の改革によって女性の地位向上が図られるべきだと述べた。フランスの劇作家グージュはフランス人権宣言が男性の権利のみを擁護したにすぎないとして批判した。 黒人奴隷の問題も啓蒙思想の批判に晒された。ウィルストンクラフトやグージュは黒人奴隷と女性問題を関連のあるものとして扱っているし、ヨーロッパやアメリカでも反奴隷制協会といったような組織がつくられた。とはいえ、黒人奴隷問題や女性解放運動は啓蒙思想において主流を占めることはなかった。 啓蒙思想は17世紀イギリスではじまった。 フリードリヒ2世 (プロイセン王)とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世 一般に、プロイセンのフリードリヒ大王は啓蒙専制君主の典型とされる。この絵では、甥の息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の前で書き物をしているが、壁に掛けられたポートレートは文通相手であった啓蒙思想家、ヴォルテールのものであるヴォルテールの「哲学書簡」やモンテスキューの「法の精神」により、啓蒙主義の考え方はフランスに渡り、後にフランスの絶対王政を批判するのに用いられた。 ハプスブルク家のマリア・テレジア女帝、プロイセン王国のフリードリヒ大王、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世などが実践している。 18世紀に入り、当時フランスやイギリスに比べ遅れをとっていたドイツにおいてもこの考えを普及し、トマジウス、メンデルスゾーンやヴォルフやゴットシェートらを輩出。 ヴォルフは理性と啓示(神の教え)に矛盾がないことを説き、人々に人間としての理性でもって見る考え方を主張。ゴットシェートは、この影響を受け、ヴォルフのように啓示と理性を並存させるのではなく、啓示の内容は理性へと還元され、理性によって解明されうると考えた。 啓蒙思想に触発されたカントも「責任ある自己」の必要性と根拠付けを行った。カントによれば、Aufklarungとは「人間が自分自身に責任を持ち、未成年の状態から抜け出ることである。」そして、他人に依存することなく自身の悟性を使用する決断と勇気を身につけ、最後に「知ることを敢えてせよ!自己自身の悟性を使用する勇気を持て!」という標語に帰結されるとしている。(カント"Was ist Aufklarung?"『啓蒙とは何か?』より)この標語には、まず個人が自分自身の知性の行使に勇気をもつようになって初めて社会が改良され得るとの考えが背景にある。近隣諸国に経済的・文化的に遅れをとっていたドイツにおいて、啓蒙思想はより強く表現されたのである。一方で啓蒙思想は、国家・社会・宗教などあらゆるものに対して理性一辺倒主義で、数学的で平板的な合理主義的なのが特徴であった。 この考えは普及すると、やがて「理性ならざるもの」、すなわち感情や信仰あるいは生命的エネルギー(生そのもの)のような理性の枠に収まらないものへの説明に対しては、不十分なものであるということが露呈してきた。(いわゆる生の哲学のはしりとも解せる)この流れは、反啓蒙思想の流れを生み出し、ドイツの詩人ハーマン(彼は、カントの友人であった)などに厳しく批判されたほか、ゲーテ・シラーなどの古典時代を規範とした、古典主義文学などへと展開されていった。 また、啓蒙思想に触発されたカントも、やがて批判哲学における著作(「純粋理性批判」など)でやがて理性の限界を論ずるようになり、啓蒙思想の超克を計った。しかし、この「自らの悟性を使用する決断と勇気」のあり方は、カント以降、ドイツ観念論などの19世紀のドイツ哲学の課題であったともいえる。 このヨーロッパでおこったCFD 思想は、その後世界各国で普及した。また近代教育学の成立にも影響与えるなど、多大な影響をあたえた。 人間と市民の権利の宣言(仏Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen)は、個人的諸権利(と国家に対する人民の集団的権利)を定義しているフランス革命の基本的文書の一つである。 通常は単に人権宣言(じんけんせんげん)と呼ばれ、世界人権宣言などの他の人権宣言と区別するためにフランス人権宣言とも呼ばれる。憲法制定への第一段階として、1789年8月26日に「憲法制定国民議会」によって採択された。 ラファイエットによって宣言が起草された当時、宣言は絶対王政から立憲君主制への移行の一部として意図されていた。結局、すぐにフランスは共和制になったが、この文書は基本的なままであった。 宣言で述べられた諸原理は、個人主義やロックの抵抗権の考え方、ルソーによって理論化された社会契約、モンテスキューによって支持された権力分立といった啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来する。 宣言は、ジョージ・メイスンによって進められ、1776年6月12日に採択されたバージニア権利章典や1776年7月のアメリカ独立宣言にもまた基づいている。 諸原理のこの言明は、かつて起こったよりも非常に日経225 な社会の再秩序化 re-ordering of society の核心を含んでいる。バスティーユ襲撃後のほんの6週間、そして封建制度の廃止後のわずかに3週間、宣言は国民主権と機会均等の教義を押し出た。すなわち、 「第三条―いかなる主権の原理も本質的に国民に存する。どの団体も、どの個人もそこから明確に発しないような権威を行使することはできない。」 これは、君主政の政治的理論が王権神授説であった前革命的状況と対照をなしている。 (第六条より)―「全ての市民は、法の下の平等にあるので、彼らの能力に従って彼らの徳や才能以上の差別なしに、全ての公的な位階、地位、職に対して平等に資格を持つ。」 重ねて、これは三部会(上級聖職者、貴族、そして第三身分として知られる残余の人々。前二者が特権を持つ)における社会の前革命的区分と好対照をなしている。特に、貴族や他の特権階級に生まれ、そのために特別な権利を享受する(あるいは剥奪される)という人民の理念と矛盾をなす。 全ての市民は「自由、所有、安全、圧制への抵抗」の権利を付与されている。宣言は、「…各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれらの同一の権利の享受を保証するという限界だけしか持たない」という事実に法の必要が由来することを論じている。従って、宣言は、法を「一般意志の表明」として見、権利のこの平等性を促進することと「社会に対して害のある行為だけ」を禁止することを意図していた。 宣言はまた、先行するアメリカ合衆国憲法や同年に提案された権利章典に類似のいくつかの条項を提出していた。合衆国憲法のように、宣言は、共同の防衛に備える必要についての議論と課税についてのいくつかの広範な原理を述べている。宣言はまた、いかに公益信託を果たしたかに関する公的行為者 (public agents) からの説明への公的権利 (public right) を明示している。合衆国権利章典のように、宣言は、刑法の「事後的な ex post facto」適用に備え、無罪の推定、言論と出版の自由、「[宗教上の意見の]表明は法によって設立された公的秩序を乱さないことを規定された」信教の自由の少し弱い保証といった原理を打ち出している。宣言は、収用権 (public right of eminent domain) に反対して所有権 (rights of property) を主張している。すなわち、 「第十七条―所有は不可侵で神聖なくりっく365 であるので、法的に示された公的必要性が明白にそれを要求する場合や、公正で優先的な保障 (just and prior indemnity) の条件の下でなければ、何人も私的使用を奪われえない。」 ただし、この宣言において保障されていた人権は、「市民権を持つ白人の男性」に対してのみである(Homme=「人」=「男性」、Citoyen=「男性市民」)。これは、当時の女性や奴隷、有色人種を完全な人間として見なさないという観念に基づくものである。 フランス第五共和政憲法(1958年10月4日に採択)の前文によれば、宣言に述べられた諸原理は立憲的価値 (constitutional value) をもっている。多くの法律や規則は、それらが「憲法院」(Conseil Constitutionnel) や国務院 (コンセイユ・デタ Conseil d'Etat) によって解釈さるようなそれらの原理に従っていなかったためにとり消された。 1789年の宣言における多くの原理は、現今でも広範囲に及ぶ含蓄をもつ。市民間での不要な差を設けるようにみえる課税の立法や実施は、反立憲的として取り消される。民族的な根拠での積極的差別是正措置 (positive discrimination) の提案は、生まれによってより多くの権利を享受する人々の民族的範疇を設けるために、平等の原理を侵害するので却下される。